Zero Reblogs

by an information architect

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山本: Webにおいて、アーキテクチャという言葉の危険性については、意識できている人がまだまだ少ない状況です。

渡邉: 直訳して「建築」と言ってしまえばいいのかも。ウェブサイトやサービスを称して「これは欠陥建築ですよ」、と。概念的な話にするからよくわからなくなる。建築と一緒で、社会的なミッションの必要性や、つくったものについての説明責任があるはずです。

データを紡いで社会に繋ぐ | IAAJ: Information Architecture Association Japan

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日本人ウェブデザイナーの多くが英語で情報収集しない問題って、英語力ではなく意欲や慣れの問題なのでは? jQueryやBootstrapの仕様書を読むのに必要な英語力って、大学入試センター試験で偏差値50も要らないのでは? 試験と違って機械翻訳もワンクリック辞書(※)も使えるんだし。英語力ではなく、意欲や慣れの問題なのでは?

※ワンクリック辞書というのは、例えばMac OS XのLook Up in Dictionaryという機能のこと。まあ厳密に言えば2クリック。ほかにはChrome拡張機能のAuto-Translate。こちらは1クリック。

いまからでも遅くないから、英語を使えるようにしたほうがいい。機械翻訳とワンクリック辞書を使いながら読解できればいいわけで、慣れの問題だけだと思うんですよね。大半の人は大学を出てるだろうし、少なくとも高校は出てるはず。その程度の英語力はあるはずなんだから。

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Javaを書いてメシを食わない人でも、Javaを読めた方がいいと思う。なぜなら90年代後半以降の主要なソフトウェア工学の本はJavaで書いてあることが多い。

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ウェブ批評文化が無いなあ、と思うのは、LINEやFacebookのようなものを中毒的に使っている人たちも、なかなか「なぜそれが良いのか」「どこが好きか」と対象化して批評せず、空気のように透明なメディアとしてのみ使ってる。でも映画やアニメなら誰でも批評してるわけでね。

なぜ人々の批評欲は情報アーキテクチャに向かないのだろう。そのための言葉が十分に提供されてないということもあるのかもしれない。もっとメディアで情報アーキテクチャについて語られるようになれば、その言葉を人々が日常的に使うわけで。例えば「マッチングサイト」という言葉は最近の報道によってずいぶん普及したはずだ。

何かについて「グルメ」になるということは、言葉をたくさん覚えるということなのだし。

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hwtnv: 二年生向けWeb基礎の授業で、数年前まである程度はいた「htmlやcss書いたことある学生」の割合が減っている。「ネットは使いますか」にはほぼ全員挙手。みんなスマホなのと、趣味で「ホームページ」作る子もいなくなってるんだなー。

いろんな産業(自動車、バイク、パソコン)で繰り返されたパターン。自作の経験が「アーキテクチャの全体像」をイメージさせる。産業の成熟と技術の複雑化によって自作派が減っていく。ウェブサービスでも同様。

でも、建築物って歴史的にも「自作して全体像を把握する」ものではなかったのに、全体像の構想力を保つことに成功していると思う。そういう教育訓練法が発達したのは、逆説的に、一人で自作できないものだったからなのかもしれない。

建築という分野では、「構想力は教育訓練しなければならないもの」と自覚されやすかったのだろう。ウェブやパソコンといった分野では、初期の原始的なアーキテクチャなら一人で自作できた。それゆえ、そのような経験の重要性が自覚されにくいまま、教育の契機であるそれが失われてしまった。教育に制度化しなければならないことなのに。

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僕の記憶する小学校では問題が起きたら「問題解決は誰かが謝らないと終わらない」ものだった
これを「普通」として教えられた子供たちが大人になったら
「社会的な事件が起きたら誰かが謝る絵が無くてはいけない。誰でもいいから謝れ」
って思うわな。そして「とにかく謝る記者会見」だけが増える
Twitter / Isaacsaso (via rpm99)

身に覚えがあるな

(via parallel)

(via parallel)

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時間がきたなら、文章の途中でいいので、そこでやめてしまうこと。むしろこうして文章を途中で投げ出しておくことによって、明日続きを書こうとするときに仕事を再開しやすくなる。編み物や陶芸でもこうした「下り坂で駐車」しておく手法が効果があることが知られている。
[情報ダイエット] 毎日忙しくても文章を書き続けるための6箇条 | Lifehacking.jp (via onaniena, sayama) (via quote-over100notes-jp) (via yo777) (via one-say) (via cubeon) (via rurinacci) (via flashno1) (via rairaiken424) (via tobyluigi) (via pns05017) (via xlheads) (via usaginobike) (via yamaxanado) (via wfsp) (via taku007) (via wanderingdj) (via hyasuura) (via hetmek)

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フリーで働いていることを言うときに、「フリーです」じゃなくて、「フリーランス」と「ランス」までちゃんと言う人のことはなんとなく警戒するようにしている。“働き方”に誇りを持ちすぎている過剰ノマド臭が、「ランス」の部分に込められている気がする。

Twitter / moyomoyomoyo: フリーで働いていることを言うときに、「フリーです」じゃなくて …

これが54RT、40favだが、いつのまに「フリーランス」という言葉がそんなことになった…

「フリーランス」は働き方を意味する。「フリー」はかなずしもそうではない。

例えば、受託制作会社の正社員であるデザイナーと社外の同業者が会話する状況を考えてみる。「いまフリーですか?」「フリーです」というやりとりがあったとする。その意味は、文脈次第で「いま何も案件を手がけていない状態ですか?」「はい、新規案件を請け負うことができます」という意味になる。ここでの「フリー」という言葉は、稼働や拘束の状態に関する概念であって、働き方に関する概念ではない。この区別を明確にするならば「フリーランス」という言葉のほうが適切だ。上のやりとりにおいて、働き方に言及して言うのであれば。

って、マジレスするのも虚しい。日本の知的風土では概念が脆くなるのだ。

最近気づいたのだが、日本人には「カタカナ語に対するフェティシズム」がある。いずれ詳しく論じたい。